自動車リサイクルの潮流 第101回:オートオークションの形成とその背景に関する考察

1.はじめに

 日本の高度経済成長期において、中古車市場の健全化の議論が生まれた。阿部(2018a)では、1960年代の下取り競争とその是正策としての査定機関の設立について整理している。その背景には、1965年の乗用車輸入の自由化があり、国内のディーラーの競争力強化のための割賦販売法における頭金比率等の規定、およびその際に頭金に充当される下取車の査定評価の適正化の議論があった。

 さらにその過程で、欧米諸国の視察などを通じて中古車市場の健全化の議論へと進展していった。それは、メーカー主導で中古車市場に介入し、中古車を商品として扱い、統一品質保証などの動きに繋がったとされる(阿部,2018b)。

 このような時期にあたる1967年5月、東京都の高輪プリンスホテルで、トヨタ自動車販売(以下「トヨタ自販」)主催の中古車オークションが開催された。それは日本で開催された最初のオートオークションと位置付けられている。

 本稿では、上記の動きを捉えつつ、なぜこの時期にオートオークションが開催されるようになったのか、それ以前とどう違うのかについて考察しておきたい。

2.1960年代後半のオートオークション

 まず、1967年のトヨタ自販のオートオークションについて整理しておきたい。これは、TAAと呼ばれるもので、現在これを運営するトヨタユーゼックのホームページでも、その代表挨拶および沿革において、日本で初めてオートオークションを開催したとの記述がされている。

 また、東京トヨペットや愛知トヨタなどの記念誌でも日本で「初の試み」と言及され、中古車販売業者の業界団体である日本中古自動車販売協会連合会(以下「中販連」)でも同様の見解となっている。さらに、当時の記事でも「日本で初めて」「新しいやり方」という表現を目にする(『自動車販売』1967年6月号、『ダイヤモンド』1967年5月15日号、『自動車工学』1967年6月号)。

 このトヨタ中古車オークションは、1967年5月8日、10日、12日の3回にわたって行われた。『自動車販売』1967年6月号によると、場所は東京・高輪プリンスホテル、大阪・寝屋川配車センター予定地、名古屋・市立吹上ホールであり、成約台数は3ヵ所で300台以上だった。オークションに参加できたのは、トヨタ系ディーラーと、それらと取引のあった中古車専業者に限られていた。

 各地区とも約1,000社の専業者に紹介状が出されていたようである。中販連の記念誌では、主催はトヨタ自販、実務と運営はトヨタ中古自動車販売が担当したとある(日本中古自動車販売協会連合会・日本中古自動車販売商工組合連合会編,1992,p.186)。

 トヨタ中古車オークションの3か月後の1967年8月8日、東京都小型自動車販売協会が東京ユーストカーオークション(TUA)を同じ高輪プリンスホテルで開催した。ここでは、ダイハツ、マツダ、三菱、スズライト、コニー、スバル、ホンダなど20社のディーラーから出品され、約100台がオークションにかけられた(『実業の日本』1967年9月15日号)。

 また、1970年2月には日産プリンス大阪販売がプリンス大阪オークション、同年5月には京都トヨタが京都トヨタ・オークションを開催した。いずれもメーカー、ディーラー系のオークションだったと言える。

 中古車販売専業者でも1969年頃から徐々にオークションが生まれてきた。1969年3月、向島自動車などが、東京都墨田区向島の町会会館でペーパーオークションを実施した。このグループは、その後、現車オークションの研究を続け、1970年に入ってから不定期開催ながらもオークションを開催していったという。

 そして、1971年に日本オートオークション協会(JAA)を設立し、墨田区押上で現車オークションの定例開催に踏み切った。また、1969年11月23日、中古自動車専業組合は、東京都新宿区の西口副都心空地(現在の三井ビル)で、当時としては空前の規模と言われた出品516台、成約254台のオークションを開催した。

 これには、東京都や神奈川県などの6団体が全面的に協力し、後の首都圏中古車販売団体連合会の結成の基盤になったとされる(日本中古自動車販売協会連合会・日本中古自動車販売商工組合連合会編,1992,pp.186-187)。

 

3.1950年代後半から1960年代前半の中古車入札市

 上記のように日本のオートオークションは1960年代後半から始まったとする記述が多いが、それ以前でも行われていたのではないかとする記述もある。外川(2001)では、五十嵐(2000)を用いて、日本のオートオークションは、1955年3月にディーラー系の中古車販売部門が東京大田区大森海岸で始めた中古車市に起源を持つとされているとある。そこで五十嵐(2000)を見てみると、確かにそのような記述はある。

 具体的には、同書の著者であり、中販連の会長であった五十嵐輝夫氏自身が、1955年3月1日に大森海岸で行われた東京トヨペットの最初の中古車市に顧客として参加したとある。そして、「その時はクルマと値段(落札予定価格)に納得することが出来ず、買うことが出来なかった」(p.115)と記述されている。

 また、「東京トヨペットの中古車入札市をキッカケに、各系列ディーラーは業販機能を多用し入札会、入札市等を開催することになっていった」「そしてより合理的なシステムとして、「TAA」や「TUAオートオークション」に発展していく」「いわば入札市はオートオークションの原型ともいうべきものだった」(p.116)などと書かれている。

 上記を見ると、1955年の段階で入札が行われていたことが窺え、1955年起源説が有力になるが、これ以外で1955年をオークションの起源とする記述は今回の調査では見られなかった。東京トヨペットやトヨタ自販の記念誌では1950年代半ばの中古車市のことは多く言及されているものの、入札が行われたかどうかは言及されていなかった。

 なお、東京トヨペットの記念誌では、1953年から1961年までの中古車の売上台数、在庫台数の推移表があるが、その備考欄に1955年3月1日に大森海岸で中古車市が開催されたことが記述されている(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973,p.126)。上記の五十嵐(2000)の記録と一致するが、ここに入札のようなものがあったかどうかは示されていない。

 1960年代初頭については、新車ディーラーの記念誌において、中古車の入札があったという記述はある。大阪トヨタ自動車の記念誌では、1961年3月と6月に「一風変わった」中古車市として「入札中古車市」を行ったことが記述されている。

 これは、「売れ残った長期在庫車両を玉船のモータープールに集め、業者対象に行なったもので、あらかじめ処分予定価格を決定しておき、展示車両には標準価格を表示し、入札する」というものだった(大阪トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1978,p.311)。その目的は「滞貨車両の一掃」と明記されている(同書,p.314)。

 また、東京トヨタ自動車の記念誌を見ると、1965年頃に東京トヨタ自動車の協力店が組織化され、東京トヨタ協友会が結成されたが、その結成と前後して、「業界で初の入札による中古車市を毎月定期的に開催し,話題を呼んだ」と示されている。

 場所は、砂町の豊和整備構内であり、そこに中古車を展示し、業者は気に入った車両の番号と購入希望価格を紙に書いて箱の中に入れ、値のよいものから次々に落札していく方式が取られた。これにより、取引の迅速化・明朗化とあわせて中古車両の適正価格が形成され、他ディーラーにも大きな影響を与えたという(東京トヨタ自動車四十年史編纂委員会編,1986,p.49)。

 これらを見るとオートオークションが生まれたとされる1967年以前より中古車の入札はなされていたことが分かる。入札とオークションは、複数の者が同時に価格の競り合いを行うという点では同じであるが、一般に、入札においては各参加者の価格はクローズドであり、オークションにおいては価格がオープンの状況で競り上げられていく印象がある。

 オークションと入札会の定義の違いがあるのであれば、1967年以前からオートオークションがあったとは安易に断言できない。この点をクリアしない限り、「日本のオートオークションはいつから始まったか」という問いには答えられない。

 

4.戦前のセリ市

 別の文献では、戦前より中古車の「セリ市」があったことが示されている。まず、日本中古自動車販売協会連合会編(1982)では、大正末期の1924年に再生車販売を業する者により東京自動車売買業組合が結成され、昭和に入ってから(1926年以降)その主体事業としてセリ市を開始したという記述がある(pp.3-4)。

 その形態としては、今日でいう「ペーパーオークション」であり、年2~3回、開催していたという。また、1928年、1929年当時のデータとして、出品料は1台5円、落札手数料は価格の5%、落札価格は100円から3,000円まで様々で、中心は500円から1,000円であったことなども記述されている。なお、このセリ市は1937年まで続けられたようであり、組合員は最盛時には110数社にまで達したという。

 東京自動車売買業組合によるセリ市については、細川(2007)においても記述されている(pp.132-136)。同書は、大正から昭和にかけてタクシー会社の「数寄屋橋ガレッジ」、自動車販売修理会社の「東京自動車市場」を経営していた細川清氏による回顧録的なものである。同氏のセリ市における立場は明記されていないが、文章表現を見る限り、主催の立場だったようである。

 同書によると、自動車のセリ市は、1924年4月頃、芝浦(東京都)のヤナセの保管庫でやった同組合主催のものが日本での始まりであったと記述されている。同書では、新聞の案内広告欄とポスターにより宣伝活動を行ったこと、ポスターは自動車ディーラー、ガレージ、タイヤの各店に配ったこと、会場は紅白のまん幕を引き、アーチを作ったりもしたこと、食堂や燗酒も提供したこと、競り人は船会社の人やメリヤス問屋の市場の競り人にお願いしたことなどが書かれている。

 他には、競り人の人間性や「ホック」(言い出し値段)の額および落札のタイミングの難しさ、「サクラ」により盛り上がった話なども書かれている。また、出品料や落札手数料、落札価格帯および中心価格帯は、日本中古自動車販売協会連合会編(1982)の記述と同じである。セリ市は1937年まで続き、28回でストップし、自然消滅していったという。

 佐藤・村松(2000)においても、同じく東京自動車売買業組合によりセリ市があったことが示されている(pp.50-51)。この情報源は上記と異なり、東京日日新聞の記事(1931年3月24日)である。

 一次資料を確認できていないが、佐藤・村松(2000)によると、同じように梁瀬自動車会社の車庫で行われていたことが書かれている。また、買い手は、東京はもとより、関西や北海道辺りからの客もあり、約300人が組合員の出品70台を取り囲んだともある。

 以上を見ると、大正末期から昭和初期にかけて、東京自動車売買業組合によりセリ市が行われたことは確かなようである。日本中古自動車販売協会連合会編(1982)や細川(2007)は、「セリ市(オークション)」という表現をしており、細川(2007)で記されているセリの様子などを見ても、この時期から中古車のオークションがされていたようにも思えるが、前節で言及した通り、オークションの定義を前提とした議論が必要である。

 

5.1950年代半ばと1960年代後半の市場規模

 上記の限りでは、中古車のオークションまたは入札会、セリ市において転機となった時期は、(1)大正末期から昭和初期、(2)1950年代半ば、(3)1960年代後半の3段階である。大正末期から昭和初期は中古車市場が芽生えたばかりの時期であり、自動車の総数が全国的にも少ない中、セリ市が行われていたという捉え方ができる。

 あくまでも想像でしかないが、数少ない中古車を効率的に配分するという役割があったのではないだろうか。一方で1950年代半ば、1960年代後半はどうだったかである。

 まず、データから見ておきたい。図1は1955年から1970年までの新車(登録車、軽自動車)の販売台数を示す。これを見ると、1955年は15万台程度だったが、1960年は67万台(1955年の4.4倍)、1965年は172万台(同11.3倍)、1970年は411万台(27.0倍)になっている。モータリゼーションの途上にあり、新車販売台数と同程度の下取車が排出されていることはないだろうが、それでも1950年代半ばと1960年代半ばでは下取車、中古車を巡る事情が異なることは想像できる。

図 1 新車登録台数・軽自動車販売台数の推移(単位:台)

出典:自動車工業会・日本小型自動車工業会『自動車統計年表』第1集~第13集、日本自動車工業会『自動車統計年表』第14集~第19集より作成

 

 筆者の知る限り、中古車販売台数は、1960年半ば以降にデータとして示されるようになった(阿部,2018b)。よってそれ以前のデータは見当たらない。これに対して、ディーラーレベルではいくつか掲載されていることが今回分かった。

 東京トヨペットの記念誌では、1953年からの中古車の販売実績が示されており、図2はそれを整理したものである。これを見ると1950年代の売上(出庫)台数は1万台にも行っていないが、1960年代後半は3万台から6万台にもなっている。

 1955年に対する1965年の数量は28倍近くの増加となっている。一方で年末在庫は、1960年代は2千台前後でキープしている。ここでは示していないが、下取車の入庫も出庫と同程度で増加しており、下取車の増大に対応して中古車の販売が拡大した様子が窺える。

 似たようなデータは、愛知トヨタ、大阪トヨタの記念誌にも掲載されている。愛知トヨタは半期ごとに中古車出庫台数を提示しているが、それによると、1956年の9月期の実績は667台、翌57年3月期は654台である(愛知トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1969,p.452, 538)。

 これに対して1966年9月期は7,134台、翌67年3月期は7,693台であり、10倍以上の販売台数の増加となっている。大阪トヨタは、1955年9月期は451台、1964年9月期は7,222台であり、同じく10倍以上の増加となっている(大阪トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1978,p.312)。

 

図 2 東京トヨペットの中古車販売実績(単位:台)

出典:東京トヨペット20年史編纂委員会編(1973),p.225

 

6.1950年代半ばの中古車市場

 上記のように1960年代後半に比べて、1950年代半ばの中古車市場は圧倒的に小さいことが窺える。本節と次節では1950年代半ばの状況を確認し、メーカー、ディーラーがどのように中古車市場に関わったかを整理しておく。

 トヨタ自販の記念誌を見ると、1950年代半ばは「中古車の需要の少ない時代」であり、中古車市場は「まだ開拓されていなかった」と言及している(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962,p.129)。当時、ディーラーは下取車の販売を仲介人に依存していたが、中古車が容易に売れないため、下取価格も低い水準で抑えられていたようである。

 また、それにより、車両の償却負担は大きくなり、ユーザーは新車との代替は躊躇しがちになる。ディーラーも資金が停滞して資金繰りに困るという状態であったという。

 中販連の記念誌では、戦後の中古車販売業は、連合軍の放出車両を中心とする輸入車起源と、二輪・三輪車の販売業者起源の2つがあり、1950年代に形作られたとする(日本中古自動車販売協会連合会編,1982,pp.6-7)。そのうち、前者は自動車に関する専門的技術をほとんど持ち合わせておらず、1960年代前半以降には姿を消し、後者が中古車販売専業の主流として存続してきたという。

 そのような中、1950年代半ばに市場に新型車が投入され、戦前からの古い車や払下車を持つユーザーは新しい車を購入し、ディーラーは下取車を受け取るようになったという。しかし、当時のディーラーは下取車を販売する力はなく、特定の業者に卸売りするのが唯一の方法であったと記されている(同書,p.14)。

 このような中、トヨタ自販の記念誌によると、ディーラーは仲介人依存から脱却し、中古車の自社販売に乗り出してきたことが示されている(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962,p.131)。具体的な社名は書かれていないが、そのうちの1つが東京トヨペットである。

 東京トヨペットの記念誌によると、1954年6月に日本のディーラーで初めて中古車部を設置したという(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973,p.120)。その背景として当時の中古車販売に困難さがあったことを言及し、中古車販売業者(正確にはブローカーや修理業者など)へのルート販売と、ベテランセールスマンによるコミッションセールス(歩合)の2本立ての政策をとり、仲介人依存の構造を変えようとしていた。

 また、他の記念誌でもブローカー、仲介人依存の中古車販売からの脱却について言及している。愛知トヨタの記念誌では、1950年代半ばまでは取引車両も少なく、ブローカーに依存して中古車を販売しても問題がなかったが、1950年代半ば以降は下取車の入庫も増大し、ブローカーの販売能力を越え始めたとある(愛知トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1969,p.450)。

 大阪トヨタの記念誌でも同様で、下取車の入庫台数が少ないころは、ブローカーまかせで回転していったが、1950年代後半に新車販売台数が急伸し、月間100台以上もの下取車が入庫するようになり、営業拠点を持たないような弱小ブローカーの手に負えるものではなくなったようである。

 仮にブローカーに一括して委託したとしてもその販売能力の限界から現金化は十分にされず、それはディーラーの債権保全の上からいっても危険であったようである。

 以上を見ると、1950年代半ばは、新車販売とそれに伴う下取車の増大が初めて問題として認識された時期ではないかと考えられる。それまでは数量的に少なかったため、下取車を仲介人、ブローカーに委託しても、ディーラーの体力を維持できる程度に現金化できていたものと思われる。

 しかし、それ以降、このブローカー依存の構造では数量的に回らなくなり、ディーラーの経営に関わる問題としてその構造から転換する必要性が出てきたのではないかと考えられる。

 

7.1950年代半ばの動脈サイドの中古車市場への関与

 東京トヨペットが中古車部を設置した直前の1954年4月から5月、トヨタ系ディーラー6社の社長が調査団を編成して、アメリカ各地の業界を視察した。トヨタ自販の記念誌によると、日本の販売業界では最初の企てとされる。

 視察全体の目的は明記されていないが、団員が最も強い関心を示したのは、中古車問題であったという(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962,pp.128-130)。なかでも団員が注目したのは、アメリカの中古車のストック量が有史以来と言われる中で、市場は一定の秩序に従って流通している事実だった。

 同記念誌によると、当時のアメリカでは新車ディーラーと中古車専門店の2系列で中古車の小売販売が行われ、両者の間には巨大な資本力を持つ中古車卸売業者が介在し、新車ディーラーの中古車の在庫を調整していたとある。

 また、銀行や自動車販売金融業者は、新車と同様に中古車に対しても在庫金融を行うことが普通になっていた。さらに、中古車の価格については、NADA(National Automobile Dealers Association,全米自動車販売店協会連合会)が価格表を作成し、中古車の引取価格は適正に保たれ、十分な小売マージンをとって再販売できる業界体制が確立されていると書かれている。

 視察団長の山口昇氏(愛知トヨタ社長)の語録によると、中古車問題はディーラーだけでは解決のつかない問題であり、メーカー出資で中古車をプールする販売会社を設立する案などがNADAの訪問時に議論されたようである。

 このようなディーラーによる問題提起もあり、翌年の1955年4月5日、メーカーの出資によりトヨタ中古自動車販売が設立され、同社社長として神谷正太郎・トヨタ自販社長が就任(兼任)した。

 トヨタ自販の記念誌によると、その背景として、仲介人依存の販売方式で伸び悩んでいるディーラーの動きが言及され、ディーラーの販売資金の調整指導を行う仕事が、新会社に課せられた主な任務であると述べられている(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962,pp.131-132)。

 具体的に、トヨタ中古自動車販売は、それまでトヨタ系全国ディーラーの下取中古車の月賦販売を取り扱っていた東豊産業(トヨタ自販の系列会社)から中古車部門の仕事を引き継いだ。

 また、1956年には五反田(東京都)に営業所を開設して直売部門とし、その後常設の「中古車トヨタ市」として運営した。さらに1957年からは中古自動車保険の代理業務も行っている。それら以外に、中古車の市場調査、標準販売価格表の作成、潜在需要者層へのPRなども行われたという。

 上記の「中古車トヨタ市」については多くの資料で記述があるが、期間限定のものと常設のものがあったようである。東京トヨペットの記念誌によると、関東ではその第1回は1955年4月15日から1週間の期間限定で、トヨタ自販および関東地区のトヨタ系ディーラーの共催で行われたことが分かる(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973,p.124)。

 同記念誌では、「わが国初の中古車展示即売市」であると述べられている。また、関西では同年6月13日から6日間にわたり、大阪市東区馬場町(当時)の馬場町運動場で開催したものが最初で、大阪トヨタ、兵庫トヨタ、京都トヨタの3社が合同で開催したとある(大阪トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1978,pp.309-311)。

 さらに、中古車市は1957年頃から業界各社でも開催されるようになった(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1970,p.373)。その背景としてはやはり、「新車販売と裏腹に,中古車問題が重大化したから」と指摘している。

 下取車の増大に対して、ディーラーは中古車販売業者を指定店、協力店として、その選別も行った。大阪トヨタでは、従来自然発生的に取引を開始していた中古車販売業者を積極的に活用する方針を打ち出し、1957年3月、出入りの24店が一堂に会し、懇親会を開催した。そこでは、下取車増加の傾向を説明し、積極的な販売を要請したようである。

 そして、これをきっかけとして、1958年3月全国にさきがけて、本格的な「中古車指定販売店制度」に踏み切ったという。また、東京トヨペットも同じ頃、東京都内の有力店に働きかけ、希望者と契約をし、それらに同社の看板をかけて、下取車の消化に協力してもらった。

 それらは、ブローカー的な片手間仕事の業者ではなく、従来の実績から推して信用のできる中古車販売業者や修理業者であった。同社の一覧表を見ると、取引開始の多くは1957年から58年である。

 さらに、下取車の「異常な増加」と中古車の地方への流通が観察される中、同社は1961年から62年にかけて大阪や愛知、静岡などの他府県でも協力店を増やしていった。

 これらを見ると、1950年代半ばは下取車が問題視される中、仲介人、ブローカー依存の構造から脱却するために、メーカー主導で中古車販売部門の会社が立ち上がるなど、ディーラーの経営をサポートする動きがあった。

 また、セールスマンや指定店、協力店を拡充したり、中古車市などの直接販売を強化したりして、ディーラー自身も中古車販売に対する意識を変えていった。これらはあくまでもトヨタの事情であるが、1950年代半ばはそのような下取車の増大に問題意識を持ち始め、試行錯誤する初期段階であったと言える。

 

8.1960年代後半の中古車市場

 一方、1960年代以降にオートオークションが続々と生まれたが、1950年代半ばとはまた事情は異なる。データで見たように、下取車を取り巻く市場が桁違いに拡大している。それを見ると1950年代半ばに行われた対応では追い付かなくなったのではないかと予想する。

 1960年代後半にオークションが立ち上がった背景として、アメリカなどでの視察が挙げられる。中販連の記念誌を見ると、日本の中古車オークションは、自動車先進国のアメリカから学び、トヨタのTAAやJAAが日本流にアレンジして先鞭をつけたものであると説明している(日本中古自動車販売協会連合会・日本中古自動車販売商工組合連合会編,1992,p.184)。

 同記念誌では、1954年4月のトヨタ系ディーラーによるアメリカ調査団の派遣まで遡り、その視察などで中古車流通対策の調査研究を開始し、その中の1つとしてオークションによる流通のあり方についての検討を行ったとしている。そして、1967年5月8日の中古車オークションに繋がったものと捉えている。

 雑誌『自動車販売』の1965年9月号では、中古車の査定機関の設立の動きがある中、それで中古車問題がすべて解決するわけではないとしている。

 そして、これと並行して販売秩序の確立と市場の開発を考えなければならないとし、1965年に派遣された日本自動車販売協会連合会(以下「自販連」)の欧米中古車事情視察団の報告書からアメリカのオークションの事例を紹介している。同記事では、オークションシステムを研究し、これにより中古車の流通を円滑化すべきだとの声があったことを言及している。

 この自販連の視察団の報告書(欧米中古車事情視察団,1965)を見てみると、アメリカのオートオークションの様子が細かく記録されている(pp.138-151)。また、イギリスやフランスでもオークション市場が形成されており、ディーラーの在庫調整、流通価格の確立に貢献しているとも言及されている。

 そして、同報告書の結びでは、新車、中古車の流通機構の整備に何らかの対策を講じる必要があるとし、そのために査定機関による価格の安定化のほか、流通網の目をもっと作ることが必要であるとしている。そして、アメリカのオークションシステムのようなものは日本でも検討する必要があるとしている。

 これらから1967年のオートオークション開始の背景として、アメリカなどの視察の影響があるようにも見えるが、それが決定的な理由とは思えない。1954年のトヨタ系ディーラーの視察からかなり時間を経ているし、1965年の自販連の視察も報告書を見る限りでは、さほどオークションの構築を喫緊の課題として強調している感じはしない。数多くある選択肢の1つとして挙げられているに過ぎない。

 先に見たように、1950年代半ばと1960年代後半では、新車販売台数の水準は大きく異なる。1950年代半ばよりも買い替え需要が増えてきているとすると、下取車の数も増えていたであろう。

 雑誌『自動車販売』1967年6月号の記事では、「これまで販売店は自社の流通チャンネルだけにたよって中古車販売をしてきているが,これにもうひとつの限界がある。これをオークションを開くことによって,販売店にしてみれば,新しい流通チャンネルができることになる」と述べられている。つまり、オークションが量的な増大に対応するということである。

 これに加えて、阿部(2018a)(2018b)で見たように、1960年代半ば頃は、中古車の査定の議論が生まれ、それに伴い、メーカーが積極的に関わり、市場を健全化するという議論が生まれた。この一連の流れは日本自動車販売協会連合会編(1979)でも書かれている。

 その中で、価格や品質などでのユーザーからの信頼性確保とともに、流通機構の整備の議論がされた。後者の中にオークション制度の導入が盛り込まれている。つまり、中古車市場全体の構造改革の1つとしてオークションが位置づけられている。

 先の雑誌『自動車販売』1967年6月号の記事よると、トヨタ自販は、これまで実施してきた中古車の統一保証、全国統一キャンペーンなどとともに、中古車卸売りの改善を図るために今回のオークションを開催したと説明しているという。

 加えて、今回のオークションによって、公正な実勢価格による取引が可能になるとともにディーラー間の取引の制度化、および市場の需給調整、参加者相互の情報交換ができるなどの理由も挙げているという。

 似たようなことは、愛知トヨタの記念誌でも書かれており、オークションの狙いは、中古車売買の場を広げるとともに、市場の実情に合った価格設定を行うことにあったとする。雑誌『実業と日本』の1967年9月15日でも「中古車市場の円滑化と健全化という業界のお題目がとなえられている」としている。

 『ダイヤモンド』1967年5月15日号でも、下取りした中古車はそう簡単にはさばけないとし、オークションのメリットとして、流通面での合理化、公正な実勢価格による取引、ディーラー相互の情報交換の3点を挙げている。

 以上を見ると、1960年代後半のオートオークションは、下取車がさらに増大する中、マッチングの場を提供し、中古車市場を円滑化させるという量的な対応策として試験的に整備されたように思える。

 また、同時に品質保証などともに、中古車市場の評価を質的に高めるという目的もあったのではないだろうか。欧米の視察の影響もあるだろうが、この視察の直接的な影響は、中古車市場のさらなる健全化、円滑化へメーカーの意識を変えたことにある。オートオークションはあくまでもその方向性の1つと位置づけられると思われる。

 

9.初期のオートオークションの課題

 1960年代後半のオートオークションに関して、業界初とされるトヨタ自販の記念誌では、意外と詳しく書かれていない。

 例えば、同社の『30年史』を見ると、1967年の同社の中古車対策は、主として流通経路の整備に重点が移されたとし、オークションは「アメリカのシステムに範をとった流通改善のための試行であった」と言及する程度である(トヨタ自動車販売株式会社社史編纂委員会編,1980,p.135)。

 また、同社の『20年史』では「現在のところ中古車オークションがその効果をじゅうぶんにあげるには至っていない」と書かれている(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1970,p.377)。

 さらに、東京トヨペットの記念誌では、マークII系、クラウン系の価格が、1000ccクラスのものとそう変わらず、オークションにおける同社のメリットはまだ十分とは言えないとある(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973,p.232)。

 トヨタ自販および関連ディーラーにとっては業界初という売りがあるものの、あまり強調されない点を見ると、当初は試行錯誤の段階でその効果については懐疑的であったものと思われる。

 オートオークションが開始された年に執筆された小島(1967)では、日本のオークションが「十分な成果をもたらさなかった」と言及している。まず、オークションの参加者が極めて狭い範囲内に限定して招かれていることを問題視している。

 具体的に、アメリカのオートオークションの事例を紹介しつつ、大都市と地方の格差に注目し、参加者が地区的に狭い範囲内に限定されたのでは、中古車需給の平衡化は図れないし、高い成約率も望めないとしている。

 そして、各県単位とか、関東、関西などのブロック単位では、あまり大きな効果は期待できないとする。同時に、地方のディーラーも自県への中古車の流入を恐れる気質がまだ強く、オークションへの参加する意欲が少ない可能性を指摘している。

 また、小島(1967)は、日本において当時論ぜられていたオークション談義には、中古車流通の円滑化という目的意識だけが前面に押し出され、その結果としてディーラーだけに都合の良いオークション構想が盛んであったことが言及されている。

 そして、そのような考え方から出発して見事失敗したオークションの例も見られるとも述べている。具体的には、メーカー系列のオークションが自社系中古車の販売価格の維持を図ったり、新車ディーラーが専業者対策の道具としてオークションを利用したりしたようである。

 小島(1967)は、そのような「政策的意図」が導入されれば、決して順調な成長を遂げないであろうとしている。他にも、オークションにより流通から排除されうる中間業者の態度や、価格の不透明性を前提に営業をする小売業者からの圧力、各オークションの運営方法の違いなどの過渡期の問題が言及されている。

 これらを見ると、初期のオートオークションは必ずしも順風満帆ではなかったと言える。しかし、その後オートオークション市場が拡大したのは事実であり、中古車販売業者主導のオークションも発展してくる。これら市場のプレーヤーが課題を抱えつつ、どのように市場を構築していったかは興味深いところである。

 

10.まとめ

 本稿では、オートオークションという切り口から1950年代半ばと1960年代後半の中古車市場を主に見てきた。1960年代後半は、下取車が量的に増大する中で、メーカーが中古車を商品として扱い、中古車市場の健全化、円滑化のために積極的に関わるという流れがあった。この時期にオートオークションが始まったのもその流れに沿ったものと捉えることができる。

 一方、1950年代半ばの中古車市場は、1960年代後半とは量的に圧倒的に異なるが、筆者にとっては構造的にあまり変わらない印象を持った。どちらも下取りという名の自動車の廃棄が増大し、それがディーラーの下で滞留し、溢れうるという問題が起きていた。

 そのような中、ディーラーは如何に効率よく流通させるかという課題に直面していた点で同じである。異なるのは規模であるが、入札にしろ、オークションにしろ、似たような状況で出てきた発想のように思える。

 そして、徐々にではあるが、生産を担うメーカーの役割が増大し、1960年代後半にメーカーの介入で市場の拡充およびそのルールの整備がされるようになったように見える。つまり、メーカーが作りっぱなしではなく、静脈市場をより考慮する必要性が出てきたということである。もっとも、1950年代半ばもトヨタ中古自動車販売としてメーカーが介入しているが、介入の度合いは1960年代後半の方が大きいと言える。

 それ以降の中古車市場はさらに複雑になる。規模はさらに大きくなり、情報通信技術や運送技術の発展により、さらに市場が広域化することは十分に予想される。また、中古車販売業者の団体が生まれ、社会的地位が向上し、メーカーとの関係もまた異なった展開がされたものと予想される。この点は問題意識として持っておきたい。

 

参考文献

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  • 日刊自動車新聞社編(2009)『JU中販連の歩み』日本中古自動車販売協会連合会・日本中古自動車販売商工組合連合会
  • 細川清(2007)『ニッポン自動車セールス昔話』文芸社
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